大人の写真。子供の写真。

神戸に板宿という駅があります。駅前に銀座通り商店街という小さな商店街があって、昔、そのアーケードの端っこに、お好み焼き屋と、紳士服店と、古本屋がありました。お好み焼き屋と紳士服店は私の二人の伯父が、古本屋は祖母が営んでいました。

紳士服店を営む母の長兄には男の子が二人いて、私は従兄弟にあたるその二人が大好きでした。そして、その従兄弟の後をついて走り回った銀座通り商店街が大好きでした。氷屋が鳶口で引っかけて道に並べていた氷柱、映画館の上の高倉健の看板、ガラスの容器の中でオレンジジュースが吹き出していたジュースサーバー、銭湯の番台、重くて一人では開けられなかったパチンコ屋のガラスの扉、間の抜けたクラクションの三輪トラック…。商店街には何でもありました。そして、そのすべてが大きかった。

阪神淡路大震災が起こる前年、仕事で神戸へ出かけたついでに、ふと思い立ってその商店街に立ち寄ってみました。伯父たちの店も祖父の古本屋もすでにありませんでしたが、商店街の骨格は昔のままでした。

しかし、遥か上空で揺れていたはずのアーケードの飾り付けは、手を伸ばせば届く高さにあり、見渡す限りズラリとレコードが並んでいたレコード屋は、6坪ほどの小さなCDショップになっていました。すべての縮尺が間違っているように見えました。

「子供の頃に通っていた進学路を歩いてみたら、広いと思っていた道がおそろしく狭かった。すべての建物がびっくりするほど小さかった。体のサイズが違うからだと言ってしまえばそれまでだが、あの風景の違いが写真に写るかどうか実験したくなった。お前の子供をちょっと貸せ。同じものを、同じカメラと、同じレンズで撮るんだ。お前も一緒に来い。」

仕事でいつもつるんでいた新倉万造さんからこの本の企画を聞かされた時、私の心は、40年前の銀座通り商店街に立っていました。

当たり前のことですが、世の中は大人用のモジュールで設計されています。子供たちはまるで巨人の国に迷い込んだガリバーのように、障害物だらけの世界に住み、大人たちの隙間から世の中をのぞき見しながら、永遠とも思えるような長い時間の中で、大人になる日を待ち続けています。

大人と子供が同じ場所へ行き、同じものを見て、同じものを写真に撮る。たったそれだけで、子供が撮った写真はタイムマシンのように、忘れていた単純な驚きや無垢な感動があった場所に連れて行ってくれます。創造し、発見し、表現するという当たり前の写真の概念がそこにはありません。おもしろい!やうれしい!やもうしんどい…といった子供の心がそのまま写っているだけです。

この本は本棚の上でふんぞり返っている写真にはしたくありません。大人と子供が写真で綴った絵日記みたいなものだと思ってください。リビングで散らかっている雑誌の間に、お手洗いのニッチに、そして通勤中のあなたの手の中に。どうかいつも近くに置いていただけますように。

↑第2章の序文より

エイ出版